Oxonian’s

韓国の大学で働いてます。EBSラジオ『たのしい日本語』も担当中です。

カヴァフィス (Cavafy) の詩

 
今日は午前中にバイオリンのレッスン。前回に比べ、ほんの少しだけれど、慣れてきた気がします。毎日、10分や20分だけでも、時間を見つけて練習しなければ。
 
さて、以前にも書きましたが、今年の初め、学部時代の恩師にお会いする機会に恵まれました。その時、あるギリシャ詩人が書いた、ある詩について伺いました。
 
先生がお話くださったのは、カヴァフィス (Cavafy) という詩人の「イタケー (Ithaka)」という詩です。その時のお話が強く印象に残ってるので、少し書いてみたいと思います。
 
いつもより思想的なことが強い記事になっているような気がするので、そういう記事を好まない方はスキップしてください ;)
 
☆          ☆          ☆
 
さて、先生のお話がなぜ印象に残っているか、、、、
それは、折に触れて次のようなことについて考えることがあり、その答えになり得るものを先生のお話の中に見た気がしたからです。
 
「研究者が人生をかけて研究して、ある程度の成果を生み出しても、いつかは人生が終わる時が来る。そして、ごくごく一部の人を除いて、成果を出したとしても、それが後世に大きなインパクトを与えることはない。そうであれば、なぜ研究するのか。」
 
じゃあ、なんで研究するのかなあと。もちろん、「楽しいからする!」とか「より良い社会を作るためににする!」とか「困っている人を助けるという使命感からする!」とか、色々な動機があると思います。でも、僕の分野 (応用研究ではなく基礎研究としての、人文系的な言語研究) では、「楽しいからする!」という知的好奇心により研究を行なっている方が (僕も含めて) ほとんどだと思います。
 
でも、研究が楽しいとしても、研究は自分の一生をかけて行うものであると思うので、後世に残る重要な貢献ができないまま終わってしまったら (実際、そうなる場合がほとんどだと思いますが) と考えると、「むなしい」とまでは言わないですが、それに近い感情を抱いてしまうことがあります。それで、最近なんかモヤモヤしていたんです。
 
そんな折、恩師の先生から「イタケー (Ithaka)」の詩をご紹介いただきました。
 
どんな内容か、(僕の理解した範囲で誤解を恐れずに) 簡単にまとめると、、、
目的地 (詩ではイタケー島) に向かって旅をしている時には、その旅を急ぐのではなく、その旅の過程で様々なことを体験したり学んだりすることが大切だ。目的地に辿り着く頃には、年老いているだろうし、目的地が当初想像していたものと違っているかもしれない。でも、そこで落胆する必要はない。その旅の過程で成長できたり人生を楽しむことができたことが大事なのだ。つまり、目的地に着いたことよりも、その過程が大切なのだ。
 
この詩を読んで、なんとなく、上で書いた「むなしさ」のようなものは感じる必要は無いのかなあと思いました。つまり、研究を続けていって、期待していた成果が出なかったり、後世に残る貢献ができなくても、研究をすすめる過程で成長できたり楽しめたりできたなら、それでいいのかなあと。
 
何年か後にこのことについて考えたら、また違った考えが浮かんでくるかもしれませんが、今はなんとなくこのように感じています。
 
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普段はあまり思想チックなことは書かないのですが、ちょっとそんな感じになってしまいました (苦笑)
 
最後に「イタケー」の英語訳が載っているサイトを掲載しておきます。(日本語版は見つからなかったので、英語版で。)